イタリアコラム

ここではクラシコイタリアをちょっと離れて、イタリアで暮らして感じたことを書いていきます。僕の生活の中心はミラノなので、あくまでミラノから見物したイタリアです。

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2003年5月25日:道を訊く人、訊かれる人

「ヴィア・○○○??」
ミラノの街を歩いていると、唐突に行く手を塞がれ、イタリア人にこう訊かれる事がよくあります。
「○○○通りって、どこ??」
という意味ですが、訊かれるたびに僕は戸惑います。
道を教えてあげられないからではありません。僕に道を訊くそのイタリア人の心境を怪しんで戸惑うのです。
僕はどう見ても外国人です。頭のてっぺんから爪先まで、まごうことなき東洋人です。仮にスーツを着込んでこなれた感じで歩いていたとしても、その土地の人間で無い可能性は極めて高いのです。一方、路上には僕の他にも多くの西洋人が歩いています。仮に彼らのうち何人かが本当はイタリア人ではないにせよ、そしてそれを見極めるのは外見上とても難しい事ですが、少なくとも僕よりは彼らの方がその土地の人間に見えることは明白です。
もし僕が東京で道に迷っても、あまた居る通行人の中から、敢えて西洋人を選んで道を訊く事は決してしないでしょう。(それも何のためらいも無く母国語で!)
正気か。それともからかっているのか。
はじめ僕はその顔をまじまじと見ます。そしてやがて相手が大真面目である事を知るのです。
道を訊くそのイタリア人の顔には、不安と焦りと苛立ちがまざまざと浮かんでいます。
何のことは無いのです。彼ら、彼女らは、何も考えることなく、自分の真ん前に来た人間に手当たり次第に道を訊くのです。
明らかに東洋人だ、外国人だ、この土地の人間では無い、道を知っているはずが無い。そんな当り前に思われる想像力すら働かせるのが面倒なのです。
訊いて分かればラッキー、分からなければまた別の人に訊けばいい。ただそれだけの事なのです。
逆ギレ気味に道を訊くイタリア人と、道を訊かれて戸惑う東洋人。戸惑いはしても決して不愉快にはなりません。むしろ愉快な気持になれるのは、イタリア人の愛すべきキャラクターゆえの事かもしれません。


2002年7月14日:目は口ほどにものを言う

イタリアで暮らしていると彼らの視線に戸惑う事があります。
日本人は人をじろじろ見る事を良い事としません。「やい、なに見ていやがんだ」なんて事になって、たちまち不穏な空気が漂います。「がんをつけた」というだけで人殺しに発展する事すらあります。
ところがイタリア人は人をじーぃっと見ます。一度見始めたら視線を逸らすことなく「見る」という行為に全神経を集中させます。
代表的な視線を挙げましょう。

子供の視線:子供は好奇心の塊です。その視線が注がれる対象は主に同年代の子供と外国人です。ミラノのような都心ではあまりない事ですが、地方へ我々が行った時の彼らの反応は凄いものがあります。それまで泣きじゃくって親をてこずらせていた子供が、我ら日本人を見るなりぴたっと泣き止みます。彼らの眼に我らは殆ど宇宙人のように映っているに違いありません。ただこれは子供の事ゆえ、イタリアだけとは限らないかもしれません。

成人男性の視線:あらゆる年齢層の男性が、若い御婦人に視線を注ぎます。それはいうまでもなく色情の視線です。それまで道端で両手を振り回して立ち話をしていた親父さんたちが、若い、それも露出過多な御婦人が横を通り過ぎた途端に、話をぴたっと止めてその御婦人に視線を注ぎます。前面をゆっくり観た後、背面を鑑賞します。行き過ぎた後はその残像を頭の中で何度もリプレイするのです。

成人女性の視線:女性の視線は同年代の女性に注がれます。それはあくまで、自分と比較して「どうか」を見極めるためのものです。スタイルの良し悪し、化粧の巧拙、身に付けている品のブランド、連れ歩いている男性の趣味までじっくり観察し、自分の方が少しだけ勝っていると自分に言い聞かせて初めて視線を逸らします。

このようにイタリア人の視線には何種類かのものがありますが、共通しているのはその時間の長さです。平均して約1分半。何だ短いじゃんか、何て言わないで下さい。1分半もの間視線を逸らさず一人の人間を見つめ続けるという事は、生半可な事ではありません。
目は口ほどにものを言う。イタリア人のお喋りは有名ですが、その目は口に負けず劣らず饒舌なのです。


2002年2月3日:醜いアヒルの子

冬のミラノは主に三つの軍団に支配されます。
一つはラガッツァ軍団。若いミラノの女の子たちで中学生と高校生で構成されています。毎年、流行のアウターで身を包みます。ダウンのロングコートやムートンなど、着るものはその年々で違いますが、とにかく全員同じアウターで身を包みます。
もう一つはキルティング軍団。中年以上の男性のアウターは、ウールのロング・コートよりキルティングのハーフ・コートが優勢になります。
最後の一つは毛皮軍団。孫のいる年齢の御婦人たちが狐に包まって群れをなします。大勢の御婦人がひとりの例外もなく毛皮に包まって街を闊歩する様子は、その醜美は別にして、エレガントといわざるを得ません。
イタリアの御婦人がエレガントに着飾るのは冬の毛皮だけではありません。伝統料理を振舞うレストランに週末行けば、大概それを見る事が出来ます。それが夏場なら胸元の大きく開いたドレス、耳や首もと、皺だらけの指には、これでもかと金銀財宝がぶる下がり、さながら歩く宝石のごとしです。
一方、イタリアの若い娘たちは、お世辞にも綺麗な格好をしているとはいえません。ナイロンの上下に鼻ピアス、一言で言えば大変汚らしい、不潔な格好をしています。
これは男性にもいえます。中高年の男性が大概、質のよいセーターや品のあるジャケットをこぎれいに着こなしているのに対し、若い男の子たちは「歩く生ごみ」のようです。
僕はかねてから、この汚らしい集団が一体いつからあのエレガントな集団に変態するのか、その境目を知りたいと思っています。高校生が老婆になるまでには随分時間が掛かりますが、この間にじっくり熟成されるのか、それとも急にエレガントになるのか、ひとり僕は怪しみます。
それというのも、「ははあ、今が丁度変わり目だな、これはまさにエレガントになり掛けているところだな」と思われるような光景に出くわした事がないからです。
さなぎは一体いつ蝶になるのか?アヒルの子が白鳥になるのはいつか?
この目でそれを確かめてみたいと僕は思っています。


9月12日:千手観音の立ち話

イタリア人が喋るとき、ジェスチャーは欠かせません。
イタリア人の両手を縛って喋らせたら、しどろもどろで巧く喋れなかったというのは有名な話です。まるで触角をもがれて右往左往する蟻のように。
往来の真ん中で立ち話をしているイタリア人。両腕を縦横無尽に振り回してお喋りに興じます。千手観音のような状態の人間が往来の真ん中に二人、仁王立ちしているわけです。
お喋りに興奮しているあまり気が付かず、その横を通り過ぎようとする人の体や顔面を思いっきり叩きます。0.5秒だけ謝って、またお喋りに戻ります。
ジェスチャーにはそれぞれ意味があって、疑問(なんで?)のポーズ、憤怒(冗談じゃない!)のポーズ、同情(おー、かわいそうに)のポーズ、と様々です。
相手が声の届かない遠くに居ても、ジェスチャーだけで会話できる事、手話の如しです。


9月7日:男同士

日本人が複数で行動するとき、一番多い組み合わせは、1位:女性同士、2位:男女、3位:男同士でしょうか。
これがイタリア人になると、1位と3位が逆転します。
行動単位の基本は、男同士です。
レストランへ行くのも一緒に旅をするのも男同士が圧倒的に多いのです。
これは別に同性愛者が多いということではなく、単純に仲がいいのです。
そしてその大部分は幼馴染です。
面白いのは、若い人だけではなく、いい年をしたおじさんまでがいっつも男同士でいる事です。
別に彼女や奥さんがいない訳ではないのにどうして男同士でいるかというと、男同士で馬鹿話をしているときが一番幸せなのだそうです。
イタリア人の男性というと女好きのイメージがあるかもしれませんが、あれは社交儀礼もあって、一生大事にするのはむしろ男友達のようです。


9月1日:犬とイタリア人

犬か猫かと問われれば、イタリア人は犬が圧倒的に好きです。
犬は猫に比べて人懐っこいし、何よりバカですから、寂しがりやなイタリア人は大好きです。
イタリア人はいつも犬を連れています。
犬を連れた知り合い同士が道でばったり出会うと、延々立ち話が始まります。
途中で携帯電話が鳴りますが、立ち話を一時中断して携帯で話した後、再度立ち話が始まります。
その間、犬もじっとしてはいません。まずお互いにお尻の匂いをかぎっこし、中には交尾を始める犬もいます。
お互いの犬が自分たちの横で交尾をしているというのに、飼主は立ち話を全くやめません。このとき犬とイタリア人、どちらがバカかと見えるときがあります。
イタリアの犬は滅多に吼えません。感情が激したときでも、尻尾がもげる勢いで振るばかりです。
たまに吼える犬がいると、周りのイタリア人は物凄い形相で睨みつけます。吼える犬は犬じゃないと言わんばかりです。
犬は行儀がいいので、飼主とレストランへ入る事が許されています。
飼主が2時間かけて夕食をとっている間も、テーブルの下でじっとしてます。
こんなに吼えない犬でも、所構わず糞をします。畜生の事だから仕方ありませんが、飼主はそれを決して片付けません。
往来の真ん中で犬が糞を始めても、飼主は知らん顔です。
従って、いきおい歩道は犬糞だらけになって、注意して歩かないとよくこれを踏みます。
イタリアの歩道が俗に犬糞道(けんぷんどう)と言われるゆえんです。
犬はイタリア人のいい玩具です。慰み者です。
夏休み前になると、大量の捨て犬が出ます。
イタリア人の夏休みは1ヶ月なので、その間犬をどうしたらよいか分からなくなって捨てるのです。預かってくれる施設もありますが、金がもったいなくて嫌なのです。一緒に連れていくのもうっとおしいと感じる人は、犬を捨てていくわけです。
夏休みから帰ってきたのち、たちまち寂しくなってまた別の犬を飼います。
果たして捨てられた犬の多くは薬品であの世へ行きます。
ときとして畜生はどちらかと僕は怪しみます。


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